うららかな春の陽気が眠気を誘うような、そんなある日のことだった。
 

 入学式の開始予定時刻まで後15分ほど。
 真新しい制服に身を包んだ新入生たちが落ち着きなく行きかうのをぼんやりと眺めながら、廊下の隅で煙草の煙を吐き出す青年の姿があった。
 数学教師として着任して今年度で4年目になる。元から要領はいいし、適当に手を抜くこともおぼえて、今ではすっかり自由奔放にやっている。
 昨年から担任を持たされているが2年生で、入学式には顔を出すだけでよいのだ。
 だが、さすがに遅刻だけはするわけにはいかない。
 腕時計で時間を確認すると、10分前になっていた。
 その1本はまだ半分近く残っていたが、仕方なくポケット灰皿に押し込んで。窓ガラスに映った自分の上半身を見ながら緩んだネクタイを直す。
 それで背筋をピンと伸ばすと、若手の教師らしい、真面目な熱血教師系の外見が整った。
「さて、では行きますか」
 退屈な式だが、せめてカワイイ女の子でも見つけられるといいなあ、などと少しも教師らしくないことを考えながら歩いていた青年だったが。
「コナン君!」
「え?」
 不意に耳に飛び込んできた言葉にびくっとして足を止めた。
 最初、聞き間違えたのかと思った。
 …コナン?
 変な名前だ、と思う。そんな名前を子供につける親はめったにいないだろう。
 そして、1度聞いたら忘れられない…。
「こっちだよ〜!早く〜!!」
 ゆっくりと振り返ると、階段の下で上を見上げて元気に手を振っているセーラー服の少女の姿があった。横顔しか見えないが、明るい雰囲気のかわいらしい女の子だ。
 そしておそらくは新入生なのだろう。新品の上履きが眩しいくらいに白いから。
「灰原とすぐに行くから、先に行ってて!」
 そんな彼女に向かって上から声が降り注いだ。
「早くしないと式が始まっちゃうよ!」
 両手を握り締めて真剣に呼びかける少女の仕種は本当に愛らしいものだ。
 微笑ましくも感じるが、青年は、その少女の顔にようやく、既視感をおぼえた。
 …知っている。
 どうして一目で思い出さなかったのだろうと、思い出してしまえば自分の馬鹿さかげんに呆れるくらいに、少女は幼い日の面影を残している。
「大丈夫、ホントにすぐ追いかけるから!」
「コナン君、新入生代表なんだからね〜!遅刻したら目立っちゃうよ、ホントにすぐ来てね!!」
 最後にそう叫ぶと彼女はクルっとこちらを向いて、パタパタと走って青年の前を通り過ぎて行く。
 すっかり生徒の気配がなくなった廊下に立ち尽くして、青年はその後姿を目で追いながら古い記憶を辿った。
 …あの子は確か…。
「まったく、歩美はうるさいんだよな。」
 …そう、たしか彼が「歩美ちゃん」と呼んでいた、と青年は思い出す。
「心配されているうちが花よ?」
 静まり返った廊下に、ゆっくりとした足音と男女が交わす会話が響く。
「何だよ、お前がのんびりしているからだろーが」
「私のせいにしないで頂戴。あなたが私のスカーフを失くしたせいなのよ?」
 そろそろ入学式が始まる時間だった。
 分かっていても、青年はそこから動くことができない。
「大体さ、なんで歩美と一緒の高校なんだよ?」
 トントンと軽快な足音がするたびに、会話する声は近づいてくる。
「あら吉田さん、喜んでいるじゃない?あなただって満更でもないんでしょう?」
 クスリと笑いを湛えるような声音に。
「灰原お前、知っててやったんだな…」
 まだ声変わり直後という感じの少年の声が、ため息を漏らす。
「帝丹以外ならどこでもいいからって言ったの、あなたじゃないの。」
 一段一段、彼らが階段を下りるたびに着実に近づく、距離。
「そりゃまぁそうだけどよ〜」
 その言葉とともに、最後の一段を下り切って。
 黒い詰襟の制服を適当に着込んだ少年が顔を見せた。




 時間が、とまる。

 そして世界が逆行する。

 8年前へと。




「…工藤?」
 青年―黒羽快斗は、震える声で呼びかけるなり、言葉を失った。
「え?」
 縁なしの眼鏡をかけた男子生徒は驚いたように視線を向けてきて。
「………!」
 息を飲んで、その場でこおりついたように動かなくなる。
 一緒にいた女子生徒も快斗の姿を目にすると、いくらか表情を動かして言った。
「…偶然って恐ろしいわね。」
 口調は冷静そのものだが、それなりに動揺しているのだろう。唇を軽く噛んで、傍らの連れを見上げる。
 連れの男子生徒の方は言葉もなく、ただ10年ぶりに会う青年の顔を見つめていたが。
「灰原」
 硬い声で隣の少女の名を呼んで。
「俺、先に行くから」
 それだけ言うと、快斗の脇をすり抜けて入学式の会場である体育館へと駆け込んだ。



 ただ静かに、冷めた視線が快斗を見上げてくる。
 「彼」が消えた体育館の扉を見つめていた快斗がその視線に気づいて振り返ると、彼女は足音を立てずに近づいて来た。
「お久しぶり、と言えばいいのかしらね?」
「…ああ」
 目の前まで来てまっすぐに立つ彼女は、少なくとも外見は、最後に会ったときよりも―当然のことなのだが―大人になっていた。
 以前よりも少し長めに伸ばしている髪が微かな風に揺れている。
「久しぶり、灰原さん…。」
 快斗は、自分でも声が掠れているのが分かった。
 驚いて動揺して困惑して、どうにもならない。
「元気そうで何よりだわ。まさかこんなところで会うとは思わなかったけど」
 そう言ってため息を吐く彼女の様子は、とても8年も経ったとは思えないほど変わっていない。
「…俺も本当にびっくりしたよ、いろんな意味で…」
 どう見ても10代半ばのこの少女が本当は自分よりも1歳年長だなんて、誰が信じてくれるだろうかと快斗は思う。
「積もる話もあるでしょうけど、今はここで立ち話をしている場合でもないわよね。」
「…そうだった。」
 少女の言葉に、ようやく快斗は今が入学式の最中であることに気づいた。
 いくら何でも入学式をサボるのはまずいだろう…。
「また後で、会いましょうか?」
 彼女は薄く笑って言った。
「工藤君も連れて行くから、安心して。どうせ逃げられないのだし。」




 8年前に別れたとき、確かに彼らは小学生の外見をしていた。
 だから計算上は何も問題はないのだけれど。
 
 ――元の姿に戻るのだと。
 「工藤新一」に戻るだろうと思ったから、傍を離れたのに、何故。




「なんで『コナン』のまま、なんだよ…」
 壇上で式辞を読む彼の姿を見ながら、やり切れない想いに拳を握り締めた。




 さすがに灰原哀の約束に嘘はなかった。
 HRが終了するとすぐに1人で職員室にやって来て、学校の外で待ち合わせ場所を決めて会うことになる。
 制服姿の男女とスーツ姿の青年というのは、普通のレストランではやたらと目立ってしまったが、本当は同い年なのに快斗が保護者のように見えるので誰も何も言ってこない。
 食事を適当に注文すると、快斗は目の前の2人を順番に見た。
「…説明してもらいたいんだけど?」
「何を?」
 相変わらず感情の表れない哀が鋭く訊き返す。
「全部、かな?…分からないことだらけ、だよ。」
 快斗はため息を吐いて、水を一口、口に含んだ。
「どうして解毒剤を飲まなかったんだ?どうして姿を消したんだ?どうしてまた俺の前に現れたんだ?…何を考えているのか、全然分からないよ。」
 この2人と最後に会ったのは、組織を壊滅させる日だった。
 3人で協力して黒の組織を叩き潰して、晴れてかつての彼らに戻れるはずだった。
 それ以前に解毒剤が完成していたことは知っていたから、快斗は安心していたのに。
「何故?…じゃあ、あの日お前は何故、来なかった?」
 それまで窓の外に向けられていたコナン―新一の視線が、再会してから多分はじめて、迷いもなく快斗をとらえる。
 8年前と同じ強い眼差しに快斗は一瞬、呼吸を忘れ。
「………約束を破ったのは悪かったよ、けど。」
 それでもどうにか、口を開いた。
「どうしても、会いに行けなかったから。」
 そう答えながら、8年前の約束を思い浮かべた。



 組織がなくなって、何のしがらみもなく会おう、と別れるときに彼が言った。
 じゃあ、また明日、と言ったけれど。
 


「…『工藤』には俺なんか必要ないと思ったから」
 元の姿に戻って、本来の自分を取り戻した「工藤新一」に、怪盗をやめた自分なんて必要はないはずで。
「傍にいたらいけない、と思ったんだ。」
 だけど傍にいたらどんどん好きになってしまうから、好きになって、好きになりすぎて離せなくなることが分かっていたから、彼から離れようと思って。
「…まさか『コナン』のままでいるとは、思わなかったよ…。」
 快斗が哀しい想いを込めて笑うと、新一は苦しそうな表情を見せた。
「だって」
 そして彼は快斗と同じように哀しげな笑みを浮かべて。
「あの日お前に会えなかったから。」
 …会えなかったから、元の姿に戻らなかったのだと、言った。



 新一のためを想って約束を破った。



「あの薬、未完成だったのよ。」
 哀が何とも言えない複雑な表情で告げた。
「…え?」
 目を見開いてそのまま固まった快斗に、新一はまた少し笑う。
「怖かったんだよ、俺だって。灰原には成功率は20%ぐらいだって言われてさ」
 笑いながら、大したことではないという様子で言うけれど。
 …20%というその数字は、笑って片付けられるものではない。
「だって本当にそうだったんだから仕方ないじゃない。それで充分だって言ったのはあなたの方よ?」
 憮然としたような哀の言葉に、新一は苦笑する。
「まあな。だって他に方法もなかったし、俺だって『工藤新一』でいることの方が価値があると思っていたから…」
「…でも、死んだら、意味がないだろ?」
 流れるような会話に、快斗はやや青ざめながらも割り込んだ。
「それは…どうかな。」
 当然だと思われる答えを簡単に拒否される。
「もし『工藤新一』を望んでくれる人がいたら、きっと、それでも俺は解毒剤を飲んでいたよ。」
 新一はまっすぐに快斗を見つめてきて。
「私は止めたけれどね?」
 言い切る彼に、今度は哀が苦笑を見せた。
「結局やめたんだから、いまさら蒸し返すなよ」
「蒸し返しているのは工藤君の方でしょ?」
「お前が話し合えっていうから、わざわざ来てやったんだぞ!」
「だって3年間同じ学校にいるんだもの、逃げたって仕方ないじゃない。」
 …辛かったはずの彼らが何でもないことのように笑っているのに。
「ちょっと…待って」
 快斗はこみ上げる涙を抑えるのに必死で、言葉が続かない。
 …泣いたら、駄目だ。
 逃げることは許されないから、この2人を前にして、泣くわけにはいかない。
「だったら工藤は…俺があの日会いに行っていたら、解毒剤を飲んだんだ?」
 尋ねると、2度目の15歳を生きている彼は、少し困ったような顔で頷いた。
「…ああ」
「何故?俺が『工藤新一』を望んでいると思ったから?」
 先ほどの彼の発言からすれば、そういうことになる。
 すると新一は露骨に視線を逸らせながら、また頷いた。
「そうだよ」
 窓の外はいつのまにか雨が降りだして、道行く人々が傘を広げている。
 つられて快斗も窓の外に目を遣り、薄暗い空を見上げると。
「…それに、怖かったけどさ」
 新一は再び快斗をまっすぐに見据えて。
「死ぬならお前と一緒にいるときがいいなって思ったから」
 その瞳に浮かぶ感情が何なのか、快斗には分からないけれど。
「馬鹿よね、生きて一緒にいる方がいいに決まっているのに」
 8年をともに過ごした哀にしみじみとため息を吐かれて、新一はムッとする。
「あのなぁ…俺がどれだけ悩んだよ思っているんだよ?」
 …どれほど悩んだのだろか。
 最期の瞬間を傍で過ごすことと、離れていても生きていること。
 どちらがより幸せかなんて、きっと誰にも決められない。
「8年も、無駄にしたのかなぁ?」
 新一と離れていた8年を思い返して、快斗が呟いた。
 …この8年も、一緒にいたかった。
 どんな形であっても、一緒にいればきっと楽しかっただろうと、今なら思う。
「だけど、会えたんだからいいだろ?」
 それに答えるのは、今度は憂いのない笑顔。
「これから3年間、よろしくな、先生?」
 …遠回りはしたかもしれない、けれど。
 彼がこうして笑えるのなら、そして傍でそれを見ていられるのなら。
「そうだね…」
 快斗も晴れやかな笑みを返した。
「お手柔らかに、工藤、灰原さん?」


 失った時間を取り戻すための日々がはじまる。



                                                  The End.


(コメント)
 新一がコナンのままで成長して幾年月。たまたま選んだ高校で、教師と生徒として黒羽快斗と再会しました…vvvという、美味しい設定のお話です。
 楽しんで頂けたら幸いです。

                                               2002年2月27日
                                                 小夜 眞彩


もう本当に美味しすぎる設定です。
出来る事なら私も教師の一人になって遠くから眺めたいです(笑)
しかも偶然出逢うというのはまるで運命みたいですよね。
八年まったく音信不通の二人というのが辛いですが、再会した後の快斗は
コナンちゃんラブ全開ですね。
生徒の面前で堂々と愛を公言してはばからない。
さすがですね。

  By縁真


In a high school 1
(ある高校の情景)